裏千家歴史物語
一碗の系譜 ― 五百年をたどる
わび茶の大成
堺の商家に生まれた千利休は、やがて信長、秀吉に仕える茶頭となります。
当時の茶は、唐物の名品を飾り、広い書院で客をもてなす華やかなものでした。
利休はそこから、飾りを削ぎ落としていきます。たどり着いたのは、二畳の小間に、一輪の花と、一碗の茶。
足るを知る。不足の中に、美を見いだす。
一碗を、次の手へ
利休は秀吉の命により、七十歳で自刃します。
けれど、その茶の心は途絶えませんでした。子の少庵、孫の宗旦へ。一碗は、静かに次の手へ渡されていきます。
宗旦は生涯、仕官せず、清貧を貫きました。人はその姿を「乞食宗旦」と呼びました。
三千家、それぞれの道へ
宗旦は晩年、屋敷の裏手に一畳台目の茶室を建て、「今日庵」と名づけました。
その茶室と裏の屋敷を継いだのが、四男の仙叟宗室。ここから「裏千家」が始まります。
表の屋敷は三男の宗左が継ぎ「表千家」に、次男の宗守は武者小路に「武者小路千家」を興しました。
一本の幹から、三つの枝へ。根は、同じ。
京都から、全国へ
仙叟宗室は加賀藩前田家に茶頭として仕え、裏千家の茶は、京都を離れて金沢へ根を下ろします。
八代 又玄斎の頃には、稽古の型「七事式」が整えられ、町人の間にも茶の湯が広がっていきました。
一碗は、武家から町人へ。やがて、日本のあちこちで点てられるようになります。
近代へ、開かれた茶
明治維新。武家の後ろ盾を失い、茶の湯は存続の危機に立たされます。
十一代 玄々斎は、京都博覧会で外国人客を迎えるため、椅子とテーブルで行う「立礼式」を考案しました。
正座ができなくても、洋装でも、一服を。伝統は、形を変えて生き延びます。
変えてよいものと、変えてはならないもの。
一碗から、世界へ
十四代 淡々斎は、戦後まもなく茶道の海外普及に乗り出します。
十五代 鵬雲斎は世界各地を巡り、「一碗からピースフルネスを」と呼びかけました。
言葉が通じなくても、一碗を差し出す心は伝わる。今、裏千家の茶は世界の支部で点てられています。
Peacefulness through a bowl of tea.
そして、あなたの一服へ
五百年、途切れずに渡されてきた一碗を、
いま、あなたの組織へ。
裏千家のお茶